コロナに感染したも医療につながれない地獄絵図の大阪

 オミクロン株の猛威で感染爆発状態が続いている。一時、大阪の死者が東京より少なかったが、第6波でまたもや大阪が死者数でトップに立ってしまった。人口あたりのコロナ死者は、ダントツで大阪がワーストワンだ。これはなぜなのか、今後のために検証が必要だ。

 大阪では、まず、感染者の把握が、その日のうちにできないほど保健所業務がパンクした。保健所を削減しすぎたことに加え、保健所への人的配置が決定的に不足していることが第一だ。人口270万人の大阪市で、保健所がたった1カ所。それでも、人口に比例する保健師等の配置がしてあればいいのだが、それもしていない。第6波の想定と備えが低すぎた。現場からの人員増の悲痛な声に、市長は耳を傾けなかった。慌てて入力業務を外注したが、市民の個人情報を扱う業務なのに、当初は契約書も指示書もなく、業者いいなりの1億円近い金額だったそうな。維新得意の「民間ではあり得ない」契約の有様だ。外注が全て悪いとは言わないが、業務の熟練や経験の蓄積をへて公務員としての能力を高めて市民に奉仕していく、公務労働へのリスペクトを欠く政治姿勢がこのような事態を招いているのではないか。公務員は遊んでいて賃金が高いという幻想をふりまき、人員と待遇削減を強行してきたことが、大阪の惨事を招いたのだ。

 その結果、感染が判明しても、保健所からの連絡が何日も来ないで自宅に放置される状況が常態化している。保健所の指示がないから、当然入院もできないことになる。せめて、医者に診断してもらい、医者の判断で、入院その他の治療が受けられたら、これほどの死者にならなくてすむ。コロナが始まり、2年を経て、どのような治療が効果的で、どのような人が重症化したり、基礎疾患を悪化させやすいかが、かなり分かってきたからだ。だから、とにかく、保健所の判断ではなく、医者に診てもらって、診断してもらうことがポイントになる。保健所を患者と医療との間にはさむことで、適切な医療を受けられないという惨事が生まれているのが、大阪なのだ。

 大阪市は、高齢者施設から救急車を呼ぶことを控えるようなことまで言い出した。別の手立てをとって、医療につなげているのならまだしも、上述した状態に陥り、保健所が機能していないにもかかわらず、高齢者が感染し重症化していくときに、救急車も呼べないなんて、どう考えてもおかしいと思う。しかし、ひょっとして、高齢者は死んでもかまわない、と考えているとしたら、そのような指示にも合点がいく。

 こう書いてきて、ひょっとしたらひょっとするな、という気がしてきた。なぜなら、府市政を牛耳っている維新の会は、新自由主義者の集まりだからだ。新自由主義とは、徹底した経済効率主義、弱肉強食、自己責任論の考え方だ。総選挙で議席を伸ばした日本維新の会は、たとえば雇用をもっと流動化させる「改革」をせよと、不安定非正規雇用のさらなる拡大を政府に迫っている。防衛予算もGDP比何%以内というような枠を取り払え、敵基地攻撃能力を持つのは当然だ、9条改憲も当然という立場を表明している。他方で、保健所やその職員は、頑なに増やさない。公的病院、病床も削減する。病気になるのは自己責任で、病気になったら自分の稼いだ金で、治療を受ければいいのだ、といった弱肉強食思想だ。生存権保障など、眼中にないのだろう。だから、テレビ局が招待してくれるのをいいことに、出演して、何かやってるふりだけして、人気を集めているのだ。テレビ局も罪が深い。なぜ大阪ではダントツに死者が多いのか、自ら真相を突き止め、改めるべきはどこなのかといった視点を視聴者に提供しないといけないのに、知事や市長の言い分だけを垂れ流しているのだから。それも、維新という特定政党の知事や市長だけに偏っているのだから、明らかに偏向報道といえる。

 このように考えてくると、感染が判明しても医療につながれないという今回の大阪の惨事は、維新の政策とそれを無批判に垂れ流すマスコミの責任が重いと言うことになる。もちろん大元は、政府の新自由主義政策にあることは言うまでもないが、大阪はそれに輪をかけた悪政だったと言うことだ。人口比最悪のコロナ感染死を生んだ大阪の惨状を悪政による人災と認識し、一刻も早く改善克服する必要があると思う。