市民の個人情報を民間に委ねる愚 ~尼崎市のUSB紛失騒ぎ~

 尼崎市が市民からの問い合わせ応えるコールセンターを民間に委託し、市民の個人情報を入れたUSBメモリーを預かった業者の社員がそのメモリーを飲酒居眠りの末、紛失するという騒ぎがあった。幸いメモリーは見つかったが、市の業者に対するコントロール不足と、預かった業者と社員の軽率さを非難する声が多い。しかし、問題の本質はそこではなく、そもそも給付金支給に関する市民からの問い合わせに応答するという業務を民間に委託したことの是非ではないか。

 当然、所得や税負担というセンシィティブな個人情報を扱うのだから、守秘義務を負う公務員たる市の職員が担うべきではないのか。いくら委託契約で守秘義務を課したところで、守られる可能性は、身分保障された公務員より低いだろう。私は、このような業務まで民間に委託されていたことを知り、ここまで公務の民間委託が進んでいるのかと驚いた。この世には、民間では担えない公務というものが存在する。市場の失敗という言葉が示すように、民間は必ずしも万能ではなく、市場や民間に任せられない分野が存在する。生活困窮者に対する支援策は、住民の生活と福祉を向上させる地方公共団体の担う公務の最たるものではないのか。

 新自由主義が席巻し、公務の解体、民間委託が猛烈に進んでいる。経費節減は大切だが、ここまで民間に委託することが本当にいいのか。一度立ち止まって考えてみる必要があるだろう。住民福祉に詳しい公務員が、その経験を蓄積し、熟練していくことで、住民が受ける福利は大きいのではないか。毎年か複数年で入札があり、委託業者が変更させられることで受けるマイナスは、住民にとって本当にいいことなのか、吟味してみる必要があるだろう。

最低賃金を1500円以上に引き上げよう

 賃金が上がらない国、日本。派遣労働など非正規雇用を増やし続けた結果だ。労働者を安くこき使い、利潤を増やすという安易な方向を企業に許してきた結果でもある。先進国の中でも、成長できない国に成り果てている。つまり、日本は労働分配率が低すぎるから、国民の購買力が上がらず、当然企業の投資も進まず成長できないのだ。

 欧米諸国の最低賃金は軒並み1500円以上となっている。日本はいまだに1000円弱。ダブルワーク、トリプルワークまで強いられているワーキングプアの人たちが、生活苦に呻吟させられている。明日のご飯、給食代、教育費、医療費、介護費用の支払いに苦労しているのだ。物価高騰にもかかわらず年金も引き下げられた。若い人も高齢者もともに苦労させられている。

 明らかにこの状況はまちがっている。このような状況を改善するための政治が機能していない。政権党がこの状況を生み出してきたからだが、その問題の追及が弱すぎる。野党をはじめ、ジャーナリズムが、問題点を指摘し、改善を図るべきなのに、その力が弱体化させられている。曰く、野党は批判ばかりで対案がない、と。ジャーナリズムも政権党からのにらみにビビり、政権党の政策への批判的報道が少ない。まるで何の問題もないように描くヨイショ報道や、現状をより悪くする政策実行を煽る報道をするメディアもあるほどだ。しかし、賃金が上がらず、成長できない国にしてきた責任は、長年政権を担当してきた政権党にあるのは、自明の理だ。

 今こそ、国民みんなが批判的精神を発揮すべき時だ。ここまで情けない国になっているのに、遠慮などいりますか。忖度すればするほど、責任を免除し、悪政が続くだけですよ。現在、最低賃金審議が進んでいる。8時間働けば、まともに暮らせるようにするには、最低賃金が1500円は必要だ。1日12000円。1週で6万円。1月24万円。手取りで月約20万円。年収で300万円ほど。これって贅沢な願いですか。

 幸い、参議院選挙が7月10日にある。最低賃金を1500円以上に引き上げることを候補者や政党に要求しよう。それでは中小企業が困るというのであれば、中小企業への支援策をとらせよう。そして、1500円以上が実現すれば、貧困問題は、少し解決されることになる。生活保護の利用者も減少し、社会保障費の増加も抑制できる。一挙両得ではないですか。

 

核兵器廃絶こそ世界平和への道

 今日21日から23日まで、オーストリアのウィーンで第1回核兵器禁止条約締約国会議が開催される。ロシアによるウクライナ侵攻と核兵器による威嚇・脅迫という危機的な状況の下で、多くの参加国がある。しかし、唯一の戦争被爆国の日本政府は不参加を決めた。同じアメリカの核の傘のもとにあるドイツはオブザーバー参加するというのに。

 この主体性のなさは救いがたい対米従属性を示している。米軍の勝手気ままを許している日米地位協定を放置している姿と重なっている。独立国の体をなしていない。

 政府は、核保有国が一国も不参加だから、その橋渡しをするという。だとしたら、双方の橋渡しなのだから、双方に顔を出すのが筋というものではないか。双方の意見・考え方を聞き、日本の考えも述べ、橋を渡していくべきものではないのか。核保有国の顔色をうかがう卑屈な態度では、国際社会を動かすことはできない。核廃絶という人類の悲願の先頭に立ってこそ、核保有の愚かさを広め、廃絶を実現していくものだ。

 今後、ロシアのプーチンのような指導者が続かないとは限らない。核保有が安全保障というのなら、すべての国が核を保有することを推奨することになる。しかし、そんなことになったら危険極まりない状態だと言うことは、言うまでもない。やはり、廃絶することが一番安全になるのである。力をもてあそぶものは、力で滅ぶ。2度の世界大戦を経験した人類の叡智が試されている。

軍拡は戦争の危機を高める 参議院選挙に行こう

 ロシアのウクライナ侵攻を機に、国内で改憲勢力が大合唱を始めている。曰く、攻められないように軍備を拡大せよ、敵基地攻撃能力を持て、自衛隊憲法に明記せよ、と。一見、正しく見える考え方のようだが、はたしてどうか。私は以下の理由から大いに疑問を感じる。

 5兆円を超える今の防衛費は、世界的に9位に位置しており、必要最小限度の実力は備えているのではないのか。GDPの2%まで増額すれば、世界第3位の防衛費となるが、近隣諸国からどのように見られるか、考慮した上でのことなのか。専守防衛という近隣諸国にとって脅威とならない立ち位置を変更することにならないのか。果てしない軍拡競争の引き金にならないのか。年金、医療、介護、教育、福祉の予算は増額が求められているが、さらに貧困なものになるのではないか。軍事栄えて国民生活が疲弊することになり、本末転倒ではないのか。1000兆円を超えた国債、円安、物価高騰対策はどうするのか。戦争放棄を定めた憲法9条を掲げ、外交で世界に平和を訴えていくことができる貴重な立場を失うことになるのではないのか。攻めてこようとする敵を作らない努力はどうなっているのか。疑問は尽きない。

 武力には武力を、という立場は、安全を保障することにはならない。最近、アメリカで銃乱射による犠牲が相次いでいる。たとえば、教室に銃を持ち込む生徒がいた場合、他の生徒も銃を持ち込めば、その教室は安全になるだろうか。反対に、一触即発の危険極まりない場所になるだろう。武器は、持てば持つほどその身の安全を保障するのではなく、それをみんなが減らし、最終的にすべてを放棄することで安全が保障されるのである。教室に銃を持ち込まず、みんなが銃を放棄すればより安全になるのである。

 軍拡すれば相手に脅威となり、相手の軍拡を引き起こし、悪循環に陥り、それぞれの国民生活を疲弊させることで、誰も幸せにならない状態が続いてしまう。そのような想像力の欠けた、自分の都合だけを優先する、マッチョな軍拡、核共有、改憲論には、ノーと言うべきだろう。7月10日投開票の参議院選挙では、日本国民の冷静な判断が求められている。無関心・棄権は危険。選挙に行って意思表示をしよう。

散歩道 兵の墓碑銘 見入る人

 散歩道にある墓地。墓石のてっぺんが尖っているのが戦死した兵のもの。古くは日露戦争のものから日中戦争、太平洋戦争のものがある。それにじっと見入る人がたまにいる。私も散歩途中の墓地で墓石の形は気になってじっと見入ることがある。この人はどんな気持ちで亡くなったのだろうか、とよく考える。また、この墓石を立てた人はどんな気持ちだったのかと。

 ロシアのウクライナ侵攻が止まらない。どちらも犠牲者が増えるばかりだ。戦争させる人は安全地帯にいて、庶民が徴兵され、戦場に送られる。戦場になった地域の人々も家を破壊され、命まで奪われる。いつも泣かされるのは、庶民だ。

 日本の憲法9条は、先の大戦で亡くなられた人々の遺言だ。ロシアの侵略を見て、チャンスとばかりに軍備増強を叫ぶ政治家がいる。肝心なのは、戦争をさせないための外交努力なのに、それはまったく眼中に入らないで、軍拡、核保有という軍事一辺主張。

 よほど戦争させたいらしい。そんな輩こそ、自分だけは安全地帯にいる卑怯者にちがいない。しかも、相手の考えることが分かっていない。こちらが軍拡すれば、相手に脅威となって、相手も軍拡するという簡単な理屈が。そして、戦争の危機が高まるのである。第二次世界大戦の経緯をみれば明白だ。それを反省して、国連憲章が作られ、武力に頼らない平和構築が追求されてきた。それをすっかり忘れてしまったらしい。

 今までの戦争犠牲者の声をもう一度しっかり聞くべき時だ。墓碑銘を見てそう痛感する。

隠ぺい改ざん自己責任 身捨つるほどの祖国はありや

 隠ぺい改ざんを恥じない政治家が大きな顔をする日本。自己責任を説き公的責任を果たさない政府の日本。参議院選挙でギャフンと言わせないと、亡国が待っている。立憲民主党よ、立憲主義回復の初心に返って頑張ってほしい。

プーチン氏はウクライナ侵略をやめよ

 2月24日、プーチン氏の指示でロシア軍がウクライナ侵略を始めた。あれこれと理由を述べてはいるが、武力で決着をつけようとすることは、国連憲章に違反する行為で断じて許すことはできない。一刻も早く侵略を中止し、ロシア軍を撤退させることを要求する。

 ここに来て、日本国内で憲法9条を攻撃する勢力が、9条では平和を守れないから変えようという世論喚起に必死だが、それに一言しておきたい。事態はまったく正反対だということだ。9条は、仮に不幸にも日本でもプーチン氏のような権力者が出てきたときに、軍事力で物事の解決を図ってはいけないと、大きなブレーキ役になるものだ。集団的自衛権もしかり、憲法9条で行使できないとされている。安倍政権は、内閣法制局長官を変えて、その解釈を変更し、安保関連法を成立させたが、それでも行使は無理筋である。だから、無制限に行使が可能になるように改憲を策している。ウクライナの状態を奇貨として、集団的自衛権行使が防衛に役立つのだと言いたいのだろう。

 しかし、冷静に事態を見つめ直してもらいたい。ソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構も消滅した。にもかかわらず、NATOは存続し、東ヨーロッパに拡大していった。そのことをロシアが脅威として感じることは、無理もない。だからといって、ウクライナを侵略していいとは絶対にならない。ただ、もし、NATOも解体し、それぞれの旧加盟国が、9条のような憲法を持たずとも、徒党を組んでの軍事力による物事の解決ではなく、外交による平和維持を指向していたなら、プーチン氏の言いがかりの根拠はなかっただろう。

 軍事力による問題解決を是とする立場は、相手もそう考えるから相手の軍事力増強を必然とする悪循環に陥る。核兵器の共有論まで主張する元首相がいるが、そんなことを実行すれば、北朝鮮核兵器保有とミサイル発射実験を批判できなくなるだろう。さらに、東アジアに異常な緊張をもたらすことは、明らかだ。また、日本をはるかに追い抜いた中国の経済力を考えると、そこと軍備拡大競争をすることが、どんなに愚かしい選択かということは、国力差を顧みず無謀な日米戦争に突入していった歴史を振り返ってみて、容易に看取されることではないか。「政府の行為によって再び戦争の惨禍」を繰り返さないと誓った日本国憲法の精神がいかに大切か、ウクライナでの戦争を見ていて気づかないわけにいかないのである。人類の正義と平和を求める精神に依拠して、あくまで平和的な国際世論の高まりによって、プーチン氏を包囲し、追い詰め、戦争という手段ではなく、話し合いによって物事を解決するという立場に立たせることである。

 戦争反対。プーチン氏はウクライナ侵略をやめよ。一日本国民として声を上げたい。